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ガルパンに見るスポーツマンシップのあり方と、ガルパンを見ていて元スポーツ競技者が感じたこと

※久々に歌とは何の関係もない記事を書いてみます。上手く書けているかどうか怪しいので何度か加筆、修正するかもしれませんがご了承ください。

 

 ガルパンという物語を考察する上での最初の論点として、ガルパンは西住みほの成長物語たり得るのか、ということが挙げられると思います(今の段階ではいまいち意味が分からないと思いますが、しばらく聞いていてください)。要するに、西住みほが最初の水没事故への対応の責任を取って黒森峰をやめさせられたという出来事の位置づけがストーリー上あまり明確ではないのではないかと筆者は思うわけです。何故でしょうか。もしガルパンが、本来ならば競技を止めてはいけなかった場面で競技を止めてしまった西住みほがもう一度チャンスを貰う物語ならば、今度は同じ間違いを犯さない(水没車両を見捨てて競技を続行するのが正しいのだ!)という趣旨の物語になってしまうわけです。そして他方で、本当はあの時の、水没事故時に仲間を見捨てなかった判断は間違っていなかったのだから、もう一度戦車道に参画して勝利を得て、自分を不当に追放した戦車道という舞台を改革するのだという物語ならば、それもみほの立派な成長物語になると思います(そんな大それた物語は多くの人は望んではいないのかもしれませんが、少なくとも理屈の上ではそうなると思います)。

 そして、水没事故への対応で黒森峰を去った西住みほという構図からは、視聴者はそのどちらの物語を感じることも難しいと思うのです。まず第一に、水没車両を見捨てることがスポーツマンとして正しい判断だとは思い難い上に、水没事故を競技の一環として正当化できるはずの万能謎カーボンという理屈もあの状況下では破綻している(現に戦車は水没してしまった)という意味で、前者の水没車両を見捨てるのが正しいという方針を物語の中の一貫した正義として認めることは到底難しいと思います。また後者の正義(西住みほが戦車道を改革する物語)が成立するためには、ガルパンは戦車道にまつわる物語やその背景を描く余地に欠けていました。(現に彼女が犯した「事件」についてはさほど重要な言及のないまま、物語は大洗の勝利という形でハッピーエンドを迎えます)

 西住みほが何の正義を貫徹した結果勝利し戦車道に受け入れられ、そして戦車道を受け入れた物語なのか、視聴者は本編だけの情報では判断し難いのではないか、というのが、上記のことを根拠にした筆者の一つの問題提起になります。勿論大洗に行った西住みほにはかけがえのない仲間が出来ましたし、その仲間たちとの大切な日常を廃校という形で壊したくないというのはみほが戦車道を続ける重要な動機になったのだと思いますが、その動機が形成される過程で、彼女が貫いた最初の拙い正義の物語(水没車両の仲間を救った彼女の物語)は、結局扱いが曖昧なままに終わってしまったのではないかと感じるわけです。

 別の角度から言及すれば、ガルパンというストーリーは西住みほが最初に貫いた正義(水没事故に対応したかった)と他のキャラクター達(西住しほ、まほ、ダージリン、カチューシャ、その他大勢の、大洗で戦車道に復帰した西住みほに罵声を浴びせたキャラクター達)の戦車道観(水没車両を見捨ててでも、競技を投げ出すべきではなかった)との間の齟齬からはじまったストーリーであるにも関わらず、両者の擦り合わせが物語内で行われることなく、何となくみほが仲間たちと共に戦って勝利を得てハッピーエンドになって戦車道に受け入れられてしまったように見えて仕方がないわけです。だから、西住みほが水没事故からの追放からの優勝という出来事を受け、あの物語の中でみほがどのような精神的成長を得たのか、いまいち明確にならない部分が理屈上はあるのではないかという疑惑が、筆者の中ではとても大きいのです。

 

※※※                                      ※※※

 

 子供のころスポーツをやっていた人は誰しも、スポーツに関して刷り込まれる幾つかの事実があります。試合前・試合後には必ず礼をする、相手の悪口を言わないなどなど、礼儀作法の意味合いが強いように見えるものもあれば、危険なプレーはしないだの、相手の危険に付け込んだプレーは反則になるだの、直接プレーに影響することが分かりやすい決まり事もあります。しかしそれらのことは別個の事というよりは、競技者の中では「スポーツマンシップ」という共通項で関連付けられており、それぞれが切っても切り離せない関係を構成しています。

 スポーツというのは強い方、そしてその場の運の味方した方が勝つように設計されており、それ以外に勝敗を左右する要素は出来るだけ排除するような作りになっています。そのため、当然選手に想定外の危険を与えたり、危険を与えかねない要素は最初から「ルール」という競技者に対する強制力や運営側の努力によって出来るだけ排除されています。もちろんスポーツに危険はつきものであり、危険を排除しきれていないスポーツはこの世にたくさんありますが(そういう部分のことを、元スポーツマンであった僕は「スポーツの欠陥」と呼んでいます)、「競技者や運営者が率先して想定外の危険を出来るだけ排除する」、そしてスポーツの欠陥が露呈した時には、それにふさわしい誰か(運営なり監督者なり、それが不可能なケースで本当の最後の手段としては、チームキャプテンなり)が相応の責任を取る、という精神は、スポーツであるからには守られていて然るべきものなのです(このことに関しては後述しますが、現に戦車道をスポーツ足らしめているのは謎カーボンという、競技者の安全を守り、スポーツの欠陥を低減するための論理であるわけです)。だからこそ筆者は黒森峰の戦車が川に落ち水没するシーンとそれを見て競技を自発的に止める西住みほを見ていて、色々と感じることがありました。具体的に言えば、これは一女子高生が負うものとしては色々と厳しすぎる責任なのではないかと。

 

 そしてそれと関連した論点でありますが、もう一度初心に帰って戦車道のスポーツとしての妥当性について議論する必要があると思います。先ほどもさんざん言及したとおり、危険のある地形を放置した運営、にもかかわらずサッカーで言うファールや野球でいうボールデッド、あるいはモータースポーツでいうレッドフラッグのルールが適用されないこと(審判の無力化)、ライバルたちに罵られ過ぎ問題などなど、違和感を覚える箇所はそれなりにありますが、それらのシーンに共通して言えるのは、そこにスポーツマンシップが正常に働く余地は存在しているのか、ということです。

 繰り返しになりますが、スポーツというのは競技者の、スポーツにとって邪魔な要素(想定外の危険や悪意など)をスポーツから出来るだけ切り離したいという良心を守るためにルールを策定し、それに準じて競技者がスポーツを行うことで成立しているわけです(無駄に高尚な言い回しをすれば、競技というのは、互いのスポーツ観に関する意見交換の場でもあるわけです)。だからサッカーではスパイクの裏を相手に向けてスライディングをしたらレッドカードが出るし、野球ではデッドボールで打者走者はファーストへの安全進塁権を得たり、最悪投手が退場処分になるわけです。そういった安全や安心に対する競技者の良心を「正当化するため」の取り組みが戦車道の中で適切に行われているかというとやや疑問に思うシーンがあることは事実ですし(水没事故への各位の対応を含めて)、先ほどまで申し上げて来たとおり、ガルパンというのはそうした戦車道の競技としての「洗練されつくしていない部分」とそれによる登場人物達の錯綜から始まった、いわばスポーツとしての戦車道に対する価値観の違いから始まった物語であるわけです。だからこそ、主人公たちが勝利を得て終わりではなく、主人公たちが勝利を得ることによってクリークが補強、撤去されるなり修造ルールならぬ西住ルールが定められるなり、もしそこまでの対処が高望みだとしたら、せめて西住みほに対して最終的にクリークでの出来事に関して黒森峰から何らかの和解が行われるような形で、何とかして最終的に西住みほの勝利が「スポーツとしての戦車道観」の話に回帰する描写が入ってナンボなんじゃないかなと、筆者は思いました。もちろん、1クールという制限の中で物語をそういった構成にすることは事実上困難であるという事情はあるのかもしれませんが、それにしても、みほの最初の正義が報われないまま物語が終わってしまうのは少し残念というか消化不良な感じがするし、言い換えればこのままでは西住みほの拙く実直な正義は、捨て去られるのでもなければ報われるわけでもなく、扱いがなあなあになってしまっているのではないかというのが筆者の見解です。(あの物語の後もし西住みほがもう一度同じような水没事故の現場に居合わせたら、今度はどんな対応をするべきなのでしょうか。筆者の根本的な主張は、ガルパンという物語は、物語の発端となったその問題に、1クールの間では結局答えを出すことが出来なかったということなのです)

 

※これは完全なる蛇足なのですが、さらに高校生スポーツとしてという観点から言うのであれば、戦車の整備に著しいコストがかかることや観測気球の存在はあまり望ましくはないでしょう。高校生のスポーツは往々にして競技に参加する為のハードルを下げて、極力公正な環境のもとで勝負させようという配慮があるものです。勿論、これがプロの世界となれば話は全く別です。

 

 これらの事実に加えて注目しておきたいのが、大洗以外のチームに関しては戦車の国籍の別という形でチームカラーが一貫しているのにも関わらず、主人公チームの大洗だけが戦車の国籍バラバラの素人オールスターズであるという事実です。チームカラーが定まっていることに関する思想性は、戦車道がスポーツと「戦争における実戦」の間を取った(もしくはその両方を兼ねようとした)競技であることを示唆していると思います。そうした実戦を想定した試合だからこそ、西住みほの拙い正義は甘くて非合理的なものと断定されたのかもしれませんが、僕はその競技の中におけるリスクのバランスを取る役目を西住みほという一女子高生、一競技者に負わせるのは流石に荷が重すぎるというか、みほに対するストーリーの無茶振りであるように思えて仕方がないのでした。

 

 最後に、この雑記の趣旨とはやや異なることかもしれませんが、ガルパンを西住みほの成長物語として規定するなら、西住みほが得た変化とはいかなるものであったのか、筆者なりの見解を出しておくと、これは「どんな時でも仲間を大切にするべき」という教訓だったのではないかと思います。黒森峰対大洗の最終戦でウサギさんチームが川にはまって立ち往生した際に、西住みほは自分の体を駆使してウサギさんチームを助けるという決断をしました。その決断と行動に一度はみほの決断を罵ったライバルたちは大いに感動し、結果大洗は勝利を手にして、西住みほはまほとも和解し、感動のエンディングを迎えるわけです。つまり、この物語に一貫しているのは、西住みほの「仲間を大切に思う」という「執念」の正当化なのではないか、と思います。

 

 前段の繰り返しになりますが、スポーツというのは勝利と安全との取引を出来るだけ避けるようにルールが策定されているものであり、西住みほが経験したような形で競技者を「試す」ようなことは真っ当なスポーツならあってはなりません(だからこそ謎カーボンという、選手の安全をある程度保証するシステムが存在しているわけです。改めて考えてみれば当たり前の話ですが、戦車道の競技性を裏側から支えているのは謎カーボンであるわけで、そこには単に戦車道がスポーツであるからという以上のSF的な根拠は必要ありません。少なくともSFに疎いスポーツ好きの目からは、謎カーボンという記号はそうしたメッセージに映りました)。そしてガルパンの物語の中で、戦車道が西住みほを「試してしまった」事に関する矛盾を、願わくばもっと描いてほしかった、というのが筆者の個人的な感想になります。そうすれば、ガルパンは西住みほの「成長物語」としても受け入れられ得るような、さらに素晴らしい作品になったと思うのです。

 スポーツ未経験者にはとても分かりづらい話だったかもしれませんが、今回はこんなところで。

 

アイカツの音楽を聞いてみた感想 その5(Summer Tears Diary、MAKEOVER MAKEUP、Forever Dreamなど)

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(Forever Dream)

 

 でんぱ組からの参加である相沢梨紗の単独の歌唱による楽曲は、Bon Bon Voyageとは対称的に、無印時代の前例を含めても非常に歌唱の簡単な楽曲になった。特徴は低音域が存在しないことと、サビの張りつめたような緊張感のある歌唱だと思う。技術的な原因からそうなっているのかそれともわざとやっているのかちょっと分かり辛いが、まあ少なくとも聞いている限りそこまで破綻はない範囲での表現として聞ける程度の乱れだと思うし、極端に素直な楽曲なので小技を使わないと冗長に聞こえるであろうことも考えるとこれが正しいレコーディングなんだろうと思う。

 今クールの間はゆめちゃん達をリードする存在となるであろうエルザフォルテだけど、設定上はどうあれ実際に歌が飛び抜けて上手いということはないように聞こえる(Bon Bon Voyageはかなりの部分がエンジニアの力のはずなので……)。とは言え声には相対的に力があり、歌によっては多分に聞きようのある仕上がりになるであろうことは予想がつく。現在出揃っている音源からの個人的な印象としては、歌の技術的には、強いて挙げれば白銀リリィぐらいかそれより少し劣るかぐらいになるかなと思う。

 

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(Summer Tears Diary)

 Summer Tears Diaryはロングトーンと強拍の関連性が明白で、歌い手にとってはボーカル音楽として非常に素直に歌い方の方向性がつかみやすく、そしてその分聞き手に実力を見せつけることが出来る楽曲だ。このような楽曲に対峙した時、歌い手は地力でねじ伏せるか小技を使って冗長でないように見せるかの選択を迫られる事が多い。どうしても声の艶やかさと音程で歌に「持っていきがち」な夜空先輩に対して、真昼ちゃんは地力で殴れるだけのモノがあって、結果的に彼女のソロは非常にシンプルかつダイナミックで聞き映えする音源に仕上がっている。

 真昼ちゃんの歌に特徴的なのが発声の鋭さだ。 声質のよさでは夜空先輩に分があると感じる人が多いかも知れないが、声の出方については真昼ちゃんよりも正しい歌い手は無印時代も含めてアイカツには存在していないと思う。(何というか童謡歌手のような正しさがある印象を受けますね)

 

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(MAKEOVER♡MAKEUP)

 

 MAKEOVER♡MAKEUPは低音域がやや硬めな音色のキックと緩やかなベースのみで構成された透明感と浮遊感のあるトランスだ。メインメロディーは誰が歌っても無難な仕上がりになりそうなシンプルさを持ちつつややCDに収めるのは難しいところのある楽曲で、特にオケに負けないキラキラとした響きを歌に乗せる為には正しい発声法や歌唱法(もしくは、存在感を増すためのハモリやユニゾンやダブルトラッキングのような工夫)が必要になってくる。そこをクリアできないとどうしてものっぺりとした平たい歌になりがちだが、他方で低音域を抜いてボーカルの動きを目立たせている作り上、ボーカルに手を入れすぎて演出過多になっても返ってボーカルの所在がわかりづらくなって楽曲としての焦点がぼやけてしまう危険性を孕んだ、少しバランスのとり方の難しい一曲でもある。

 オケを含めたパッケージング的にはTSU-BO-MI ~鮮やかな未来へ~を思わせるような、乙女トランス? とでも言うような簡明な分りよさを持った楽曲に仕上がっていると思う。

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(TSU-BO-MI ~鮮やかな未来へ~)

 TSU-BO-MI ~鮮やかな未来へ~はパッケージング的には非常に完成度の高い楽曲だ。メロディーライン、装飾共にシンプルだが、ボーカル的に見ると実力を撒き散らす余地の意外に少ない楽曲でもあるので、どうしても声質や小技といった小器用さやユニットの魔法がものを言う楽曲になりやすい。真昼ちゃん一人だとスッキリしすぎていて少し物足りなさを感じさせるところがあるし、姉妹verだとより良い音源に仕上がっているように聞こえる。

 

 香澄真昼の歌唱(本来なら星咲花那の歌唱と言うべきところかもしれないけれど、ゆず先輩との間で明確に「歌い分け」がなされている以上、キャラをして独立した歌い手として扱ってしまいたい)の特徴としては、素直で真っ直ぐな発声、軽い滑舌、乱れのない正確な音程、リズム等と非常に卒のなく聞きどころのある歌を歌う。引っくるめて言えば、かなり「歌の上手い歌い手」だ。歌モノ企画の中にはどうしても歌が上手いとされるキャラクター(アイマスの千早ポジのキャラクター)がいて、それが実態を反映していたりしていなかったりする。アイカツで言えばそうしたポジショニングのキャラクターとして歌組のひめちゃん先輩やローラが挙げられると思う(人によっては白銀リリィやエルザフォルテなんかもそこに加えて考えているかもしれない)が、真昼ちゃんにはそうした歌い手達よりも、少なくともCD上では格段にシンプルで卒のない歌を歌う技術があるので、もし良ければ、こんなネットの片隅まで流れ着いたのも何かの縁だと思って注意深く聞いてみて欲しい。

 アイカツは200話近い話数を重ねることから必然的にキャラクターの成長を描くことに重きをおいたコンテンツになりやすいが、ゆめちゃんやローラが順調に精神的成長を遂げているなと思う一方で真昼ちゃんは最近ぐっと大人っぽい魅力を身に着けてきたように感じる。たまに出るたびに新曲を歌うのも注目度を上げているポイントで、今後ますます目が離せないキャラクターになって行くことだろう。

 

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 ところで、8月17日、24日はアイカツ5周年を記念してアイカツとスターズのコラボ企画をやるらしいですね。個人的にとても楽しみにしています。

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